
【映画レビュー】エディントンへようこそ
――アリ・アスターが“ついこの間”を映画にしたとき
作品の背景・前情報
監督・脚本
アリ・アスター
『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』『ボーはおそれている』などで知られる映画作家。本作は長編4作目にあたり、ホラー的手法を用いながら、家族、共同体、信仰、分断といったテーマを一貫して扱ってきた監督の集大成的側面も感じさせる。
出演
ホアキン・フェニックス
ペドロ・パスカル
エマ・ストーン
オースティン・バトラー ほか
前作『ボーはおそれている』に続き、ホアキン・フェニックスが主演を務めており、アリ・アスター作品の“顔”としての存在感を強めている。
ジャンル
ブラックコメディ/スリラー
明確なホラー映画というよりも、社会風刺や心理的な不快感を軸にした作品として位置づけられる。
その他注目点
物語の舞台は、2020年のアメリカ、コロナ禍の真っただ中。
パンデミック、SNS、政治的分断といった極めて近年の社会状況を、正面から物語に組み込んでいる点は、アリ・アスター作品の中でも異色と言える。
あらすじ
2020年、ニューメキシコ州の架空の町エディントン。
ロックダウン下で不安と不満が渦巻く中、保安官ジョーは現市長との対立をきっかけに、市長選への出馬を決意する。
SNSを介した情報の拡散や対立が激化する一方、ジョーの妻ルイーズは陰謀論的な思想に傾倒していき、町全体は次第に制御不能な方向へと進んでいく。
作品のテーマについて
本作が扱っているテーマは非常に多い。
SNS、集団圧力、レッテル貼り、フェイクニュース、炎上、陰謀論、カルト宗教、差別、ブラック・ライブズ・マター。
コロナ禍以降、社会の表層に噴き出した問題が、ほぼ網羅的に並べられている。
ただし、それらは社会派映画のように整理され、論理的に提示されるわけではない。
アリ・アスターはこれらの題材を、ブラックコメディとして歪ませ、混線させた状態で観客の前に差し出す。
表面的には分かりやすいが、観終わったあとには「拾いきれていない何か」が残る。
その構造自体が、現代社会の情報環境をそのまま写しているようにも見える。
表現について
本作の表現でまず印象に残るのは、映像的な構図の良さや美しさ。A24作品らしいカメラワークは健在だ。
舞台となるコロナ禍のアメリカの片田舎、ニューメキシコ州のエディントンは、誇張とリアリティの境界線上で描かれる。
マスク、街の様子、人々の距離感。
どれも強調されているようで、決して誇張ではないだろう。
事件が起こるまでの描写は丁寧で、やや長く感じた。
しかし、その“溜め”があるからこそ、後半の転調は鮮明に効いてくる。
展開は読めなくなり、体感時間は一気に縮まった。
登場人物たちは皆、自分が正しいと信じて疑わない。
分断された社会の居心地の悪さをひしひしと感じる表現だった。
残った印象
この映画に詰め込まれているのは、現代特有の「なんとなく嫌な感じ」だ。
SNSによる弾圧、正義の衝突、分断の可視化。
誰もが正義を語り、誰もが相手を間違っていると思っている。
その状況が、笑えないブラックコメディとして積み上げられていく。
ダークコメディとしても、社会風刺としても受け取れるが、どちらかに割り切れない。
その宙づり感こそが、本作の最大の特徴だろう。
主人公ジョーは、確かにエディントンという町を愛していた。
だからこそ、この物語は単なる狂気や暴力の話では終わらない。
まとめ
『エディントンへようこそ』は、アリ・アスターがこれまで描いてきたテーマを、極めて現在進行形の題材に接続した作品だ。
コロナ禍という「ついこの間」を、ここまで直接的に映画へ落とし込んだ例は、まだ多くない。
考察の余地は意図的に大きく残されていると思う。
その余白は、パンフレットでも示されていたが、深読みすれば陰謀論とも紙一重になり得る。
そこまで含めて本作の設計なのかもしれない。
暴力描写の強さから、観る人を選ぶ映画ではあるかもしれない。
それでも本作は、SNSと分断の時代をアリ・アスター流に切り取った作品として、今後も語られていくだろう。
「嫌な映画だった」と感じるなら、それはおそらく、狙い通りだ。
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